パンの耳に感謝

今日の朝食はトーストにスクランブルエッグ。トースターがないので、食パンはフライパンで焼く。厚めの食パンを買ったので表面はカリっと、中身はソフトに仕上がる。スクランブルエッグには贅沢にバターを8グラム使った。溶き卵に少しだけお塩を足して、フライパンの上でバターが茶色くならないように気を付ける。栄養を考えてもう一品、メカブにポン酢と白ごまを指ですりつぶしたものをメニューに加える。すでにスクランブルエッグにバターを使っているので、トーストにまたバターをつけるのもどうなんだろうと考える。結局、トーストにスクランブルエッグを乗せて、バターの代わりも兼ねた。食べていて気付いたことがある。トーストはフライパンで焼いているのでやわらかい。そのうえにスクランブルエッグを乗せるとその重みでパンがしなって食べづらい。8等分にしたピザの端っこをもつと先端のほうが具の重みでしなって、池の鯉みたいに上を向いてパクパクしないといけないあれだ。だけど、パンの耳のコーナー部分を持つと、材料力学でいうところの梁の役目をはたしてくれる。しっかりと、パンの白い部分とスクランブルエッグを保持してくれるのだ。取っ手としての役割をしてくれるパンの耳はとってもえらい。

ニンジンしりしり

しりしりっていうオノマトペがいいね。千切りとか、かつら剥きとかも全部オノマトペにすればいいのにね。キャベツとととんとか、大根くるくるとか。昼にちゃんぽんを作りながらぼんやりと考えてたんだけど、料理の本ってたくさんあるけど、料理を食べるタイミングの本ってないよな。知らないだけであるのかな。ま、ひとぞれぞれだけど、なんかそういう楽しみ方もあるんじゃないかなと思って。「ミスドのフレンチクルーラーは、朝食の後のデザートとして食べると、朝からこんな贅沢していいのか?って気持ちになって幸せです」とか、「賞味期限ぎりぎりの食材を使いきって料理を作ると、食材を無駄にしなかったぞっていう誇らしい気持ちになります」とか。立川談志が生きてたら、そんな本だしてほしかったな。タイトルは「飴は噛んで食うんじゃねぇ」かな。

忘れてもいいこと、わるいこと

まいにち、いろんな新しい情報が入ってくる。これだけあれば大丈夫と思っていても、次の日には必要なものが出てくる。例えば本とか調味料とか。頭の中は宇宙ではない。小さな庭に置いてある納屋くらいの広さしかないんじゃないかと思う。新しいなにかをそこに納めるたびに、今まで大切にしてたものをどこかに移して、失くしてしまっているような気もする。ふとした瞬間にそれに気づくこともあるし、永遠にそのままって場合だってあるかもしれない。忘れちゃいけないなって思ったことは、常に手元に置いておくべきなんだと思う。例えば、大切なものだからって納屋のどこかに保管しているものよりも、毎日左手首につけているG-shockからのほうがたくさん、大切なことを教えてもらっていて、僕にとってかけがえのないものになっているような気もする。失くしてしまうんじゃないかと心配してどこかにおいやってしまうよりも、失くさないんだぞという強い気持ちで常に側においておくほうが、きっといいのかもしれない。

ハムタロウのひとりごはん

「もう、意味不明なものを口の中にいれたくない!」と思って、また料理を作り始めた。酵母エキス、たんぱく酵素分解物、増粘剤、ソルビン酸K。なんなんですか。これ、なんなんですか!料理の基本は「さしすせそ」じゃないんですか!近くのブックオフで「ケンタロウのひとりごはん」って本を買った。豚肉とアスパラのふんわり卵炒めとキャベツのレモンマヨサラダ美味しかった。レモンを買い忘れて、マヨサラダになったけど。ヘケ。

おれの料理最強論

「よくそう言ってるけど、結局、料理最強論って何なの?」と聞かれた。いろいろあるんだけど、その中の一つはどんな難しいことでも、料理に置き換えることで簡単に説明がつくってことだ。「同時に一つ以上のものを考察することは決してできない」って言葉がある。要するに「ショートケーキのことを考えながら、本当においしいカレーライスは作れない」ってことだ。うん、うまく説明できないな。人間でもなんでも生まれてから死ぬまでにする事って、息とか睡眠とかそういう好みを伴わないものを除けば、ご飯を食べることが一番長い。みんな好きなものがある。おいしい物を食べたい。善人でも、悪人でも、国が違っても、宗教が違っても、ベジタリアンだって、おいしい物が食べたい。あえて、まずい物が食べたいなんてことはない。結果的にまずいものばかり食べている人だって、気持ちはおいしい物に向いている。要するにご飯を食べたいという感覚に慣れてるともいえる。日記やダイエットは3日しか続かなくても、ご飯は一生続ける。いやいやじゃなく、食べたいから食べてる。むむむ。お決まりの書きながら頭が混乱してきたぞ。つまり、みんなたくさん料理にまつわる何かを経験していて、それをずっと続けてきているって話なのだ。こりゃさらに頭が混乱してきたぞ。最強ってことはわかってんだけど、なぜなのかうまく説明できない。要するに「ここの店のカレーライスは最強においしいと知っていても、材料や作り方を説明できるわけじゃない!」ってことだ。料理最強論は話をごまかすのにも使えるみたいだ。

ふつうに感じたことでいい

誰かに「これがいい。」と言われてやっていることは、やはり最終的には自分のためにならない気がする。きっと、自分で「これでやってみよう。」と決めてやるほうがいい。それが最善の方法かどうかはわからない。誰かの言う通りにやったほうが良い場合もあるかもしれない。だけど、やらされている事には天井がある。その天井がどんなに高くても、やらされてる限りはいづれそれにぶつかって行き場を失う。自分でやるのは大変だ。自分が決めたことが正しいかどうかわからない。最善かどうかもわからない。誰かに要領の悪い奴だって笑われるかもしれない。不安だ。だけど、その不安がなくなるくらいの情熱で、もっと前に進みたいと考え続けることが大切なことのような気がする。失敗したときに誰かを恨む無駄な時間だって必要ない。そしたら、どこまででもいける。だって、天井がなくなったらそこには空があるし、空はどこまででもつながっているんだ。

ゆめのつづき

夢の中で、僕はルナシーのメンバーになってライブに出てた。それはいい。問題なのは僕のパートだ。傘って。傘ってなんですのん。そんなんでルナシーはいれんのかい。くるりにファンファン以上の衝撃だわ。曲の盛り上がりの直前に傘を思いっきり開いて、その時の「ぶわっ」って音が僕の役目だ。オーケストラのシンバル的立ち位置。一言でいうとニッチですね。まったく関係はないのだけど、今日読んでた本の中で、ドン・キホーテが語ってたことが、坂本慎太郎と一緒だった。