20191215

晴れ。朝から曲を作る。買ってきた板にパソコン、Midiキーボード×2、タッチパット、コントローラーをのせる。頭でこんな風にしたいなと思っている事がある。だけど、やってみると違うアイディアが出てくる。ふと思う。やりたいことって、考えだすんじゃなくて、すでに自分の中にあって、具体的に動いたときに、それを少しづつ引っ張りだす事なんじゃないかと。引っ張り出すときには、様々な形や大きさの取り出し口があって、そこから無理矢理かもしくは簡単に中のやりたいことが取り出すことができる。だけど、やりたいことは大福みたいに柔らかくて、無理矢理取り出すと形が変わってしまう。目の前に出てきたときには、「なんだかなー」というものになっている。何度も練習すると、上手い取り出し方が分かってくる。知恵の輪のように、上手く回転させながらやると大福の形が変わらなかったりする。赤ちゃんのオモチャでそんなのがある。才能っていうのは、その取り出し口がやっている事とぴったりフィットしている状態かも知れない。そう考えると、すべての人の中にはすべてのものが入っていて、それを取り出せるかどうかのだけの問題になってくる。初めはすべての事を知ってるけど、おぎゃあと生まれた瞬間にそのことを忘れる。忘れただけで、その子の中にはすべてが詰まっている。経験の中で、中に入っているものを取り出す必要が生じる。その時に、取り出しやすい人と取り出しにくい人、つまりは上手くできる人、できない人に分けられるんじゃないか。あとは、努力。努力をすると、取り出し口の形がよりハッキリとしてくる。取り出したいものに合わせて、僕らは取り出し口の形を変える事ができる。容易に変わるものじゃないと思う。育ち方によって、取り出し口の形も変わるだろう。すごい才能の取り出し口をもったまま、それを取り出そうとすることなく死んでしまう人もいるだろう。人は生まれた瞬間から死に続けていて、その間にできるだけ自分が納得する綺麗な形の大福を取り出さないといけないんじゃないか。日記を読み返すことはないけど、今日の僕が明日の僕にいいたいのは、できないんじゃなくて、取り出し口探したり、広げたりする努力をしてないだけなんだということ。できないなんて言い訳は通じないのだよ。昨日読んだ、「春山町サーバンツ」に出てきた、「はるやまんじゅう」が豆大福のようだったので、豆大福を食べてみる。豆大福を作る才能があるとしたら、これは僕にとって小腹を満たす小さな一口だけど、人生にとっての大きな一歩かもしれない。なんてな。お昼、からあげを作る。新しいレシピで作る。衣が薄く、味も薄い。その分、肉は柔らかくなっていた。30秒皮下向き、上下3分、強火1分30秒で揚げた。音楽作るとき用の延長コードを買う。ビックカメラで551円。姉さんにユナイテッドシネマの無料観覧券をもらった。映画いつぶりだろう。「聖の青春」が最後か。何を観ればよいのか分かんないけど、なんか楽しみだなあ。

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